悠さんち

メモ的な。

縦書きテスト

 シーズン最後のJカップが、東堂さんの引退レースになった。プロとしてのキャリアのほとんどを海外のチームで過ごした人だけど、最後はやはり日本のファンの前でと、本人が強く要望したらしい。チームも乗り気で、今年の来日選手のラインナップときたら見たこともないような豪華な顔ぶれだった。  雲一つない快晴のレースだった。沿道を埋め尽くした来場者数はこれまでの記録を大きく更新し、取材に来たメディアも例年にない多さだったらしい。ロードレース人気がずっと低かった時代からおよそ四半世紀の年月を、その実力とキャラクターで自転車界の顔であり続けた、現役最年長となって久しい選手の引退にふさわしい、賑やかで楽しいレースになった。  最初の山岳賞はご祝儀のように贈られたが、最後のそれはわずかな隙を狙ってかすめ取った勝利だった。静かに忍び寄り、音もなく襲いかかる――全盛期を遙かに過ぎても、ここぞという場面でのテクニックは一流だ。海の向こうのメディアではニンジャの文字がまた紙面を飾るのだろう。本人は最後まで嫌がっていたが、そのライディングスタイルにいかにも東洋人らしいルックスも相まって、ニンジャの二つ名は最初に勝利を挙げた日からずっと彼とともにある。本人が昔から主張する"スリーピング・ビューティ"はもっぱら自称で、あとはやっぱりキング・オブ・マウンテン――『山神』。あまりにも彼に似合いすぎたのだろう、最速の座を譲ったいまも、その名が示す選手は彼ひとりだ。  最後の最後で追い抜かれた選手が手を叩いて爆笑するような勝利もそうはない。沿道で、大型ビジョンの周辺で、あるいは画面の向こう側で、たくさんの人が笑って泣いて祝福する、そんなレースになった。優勝は大本命とされたエースが手堅くもぎとって華を添え、東堂さんはチームメイトのずっと後方で、降り注ぐ歓声を抱くように両手を広げたまま、ゆっくりとゴールに飛び込んだ。ご丁寧にもアイウェアを外し、花形役者のように笑ったその顔は、その日から翌日にかけてたくさんのメディアを大きく飾った。  その一部始終を見届けた場所がメイン会場の現地解説席だったのはオレの小さな不満だが、じゃあその場所を誰かに譲れたかというと譲れやしないのだった。巻島さんに立候補されたら太刀打ちはできないが、彼の解説は素人向きとは言えないので、今回は声がかからなかったらしい。  レースの最中は、思い出せる限りの彼の話をした。実況アナウンサーが笑い声を上げるようなことをたくさん言い、大丈夫ですかと焦らせるようなことも少し言った。会場のどこかに放りっぱなしのスマホには荒北さんや黒田さんあたりからお小言がいくつか来ているだろうけど、東堂さん本人はきっと、腹を抱えて笑うだけだろう。  表彰式が終わり、セレモニーが始まった。ステージに立つ東堂さんを大型ビジョンが大きく映し出す。このまま全国へも生中継だそうだ。マイクを持ったインタビューアが型どおりの質問をいくつかして、そのあとオレのいる実況席が呼ばれた。アナウンサーとのやり取りのあと、オレからもレースについていくつか問うて、答えを得る。最後の山岳についてオレなりの観点で訊くとニヤリと満足げな笑みを浮かべたので、及第点をもらえたらしい。 『――では真波さん、引退レースを走り終えた東堂選手に、最後にひとことお願いします!』 「はい、……えーと、――」  続けようとした喉が震えて、言葉がつかえた。咳払いをひとつ、ふたつして、オレはこぶしをぎゅっと握りしめる。  ダメだ。 「あの、……ちょっとそこで待ってて!」 『は!? ――真波さん!?』  けっこうな高さに作られたステージから足場伝いに跳び降りる。どよめき、悲鳴と制止の声と、あと歓声。全部無視して、ジンジン痛む足を叱咤し駆けだした。たくさんの人々が驚いた顔をしたまま、オレの前からよけて道を作ってくれた。ペダルを回すんじゃなく、二本の足で地面を蹴って走ることを、これだけ必死でしたのは初めてかもしれなかった。  数十メートル先の壇上、呆然とオレの暴挙を眺めていたひとのもとによじ登る。膝に手をついて必死で呼吸をし、どうにか顔を上げると、東堂さんは怒りと驚きと呆れと心配と笑いの入り交じった、なんともすごい表情をしていた。 「――とう、どうっ、さんっ」  整わない息のまま、呼びかける。次の言葉を押しだそうとしたところで、東堂さんはふっと笑うと、待て、の仕草でオレに手のひらを向けた。 「情熱的だな、真波山岳! わかったから、まず立て。慌てなくていい、ちゃんと聞かせてくれ」 「…………は、い」  くるりと回って差し伸べられた手にすがって身を起こす。深呼吸をひとつして、真正面から向き合った。東堂さんは片手を腰に当て、少し首を傾げて、オレの言葉を静かに待っていた。ステージの下から、がんばれー、なんて応援の声がいくつかオレに向かって飛んできて、ちょっと恥ずかしい。 「東堂さん」 「うん」  左の膝が、ずきん、と痛んで、それをオレは噛み殺す。本当は、今日のレースをこの人と走っていたかったなんて、――叶うなら最後の最後にその背を押したかったなんて。そうでなければ永遠に道の上を走り続けてほしかっただなんて、神様にだって願えやしない。  永遠の時などなく、オレは自転車をすでに降り、今度はこの人の番なのだ。  腰を折り、あらためて深く頭を下げた。最敬礼というものをオレに最初に教えこんだのも、たぶんこの人だった。身体を起こしながら、もう一度目を合わせる。オレを見下ろして目を細める仕草が、どこか懐かしい。  たくさんの言葉が胸を駆け巡り、けれど唇から出てきたのは結局、平凡極まりないフレーズだった。 「――おつかれさまでした、東堂さん」 「ああ、ありがとう」 「現役のとき、……あなたの背中が、ずっとオレの目標でした。結局追いつけたのか、追いつけなかったのか、わからないけど――」  実のところ、出した結果の話だけするなら、オレのほうが少し上だ。東堂さんは結局、マイヨ・ジョーヌを着ることはなかった。  だがそれが、この人の背中を思わない理由になどならない。 「ずっとオレの、――オレたちの前を走っていてくれて、ありがとうございました」  もう一度、深く頭を下げる。大きな歓声と、割れんばかりの拍手が上がった。東堂さんの名を呼ぶたくさんの声。悲鳴、すすり泣き。オレが最後に言ったのと同じ感謝の言葉が、会場のあちこちからいくつも届く。 「――ありがとう、真波」 ぐっと肩を引き寄せられた。オレごと観衆に身体を向けて、東堂さんは完爾と笑う。 「ありがとう、皆さん!」  よく通る声が、感謝を叫び返す。空いた片手が、見慣れた形を作った。人差し指を突きつける不遜なポーズに、歓声が轟く。 「永遠に続く時などない。時はすべて一瞬、過去には帰れない。だからこそ一瞬一瞬が代えがたく尊いのだと――そう、心に刻んで生きてきました。なにも悔いなどありません。素晴らしい選手生活、――素晴らしい人生だった!」  東堂さんはオレの肩を抱き寄せたままで、だから彼の身体の震えがわかった。  泣いている。  きっと、時よ止まれと泣いていた。いやだと、去りたくないと、もっと走っていたいのだと、月に手を伸ばすこどものように。  こんなにも晴れやかな、すがすがしい笑顔で、永遠が欲しいとこの人は泣くのだ。 「今日のこのレースを、この青く晴れた空を、秋の終わりの澄んだ空気を、ここにいる皆さんの顔を、かけてくださった言葉を! オレは生涯忘れないでしょう。ここに立つことができてよかった。  ありがとう! さらば、愛しいひとたち!」  東堂さんが大きく手を振る。眼下の誰もが彼の名を呼び、手を叩き、笑って泣いて、すさまじい騒ぎだった。彼に降り注ぐ熱量を隣で浴びているだけでくらくらする。 「真波」  満面の笑みを振りまいたまま、オレの耳にだけ届く声で東堂さんが囁いた。 「感謝する。おまえがいて良かった」 「……はい」  憧れぬいた背中に、オレはそっと触れる。  オレの脚はもう山を登れず、オレの背にはもう翼は生えない。それでもいまここで、彼の隣で、この脚がこの身体が、少しでも彼の支えになれているのなら、それはなんて幸せなことだろう。 「オレもです」  彼の名を呼び続ける人々に笑いかけ、東堂さんは壇上から降りた。オレもその背を追いかける。  きっとオレも、生涯忘れることはないだろう。あの熱を、あの震えを、彼の言葉を、  オレの前をゆく、この美しい背中を。